【考察】大河ドラマ「どうする家康」第44回!

おはようございます
1週間の始まりの月曜日の朝です

昨日は一日中ずっと事務所で作業
来客は午前中に1件3名、午後に3件6人

で、月曜日ということで
大河ドラマ「どうする家康」第44回

家康は大坂城入り関ヶ原の戦勝報告を行うが
茶々から秀頼と孫娘千姫の婚姻を約束させられる
征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた家康は
国づくりに励むが秀忠の頼りなさが気になる
高齢化した家康をこれまで支えてきた家臣団で
忠勝が老齢を理由に隠居を申し出る
その頃大坂では大野治長が茶々の下に戻っていた

ドラマのあらすじに関してはこちらへ
どうする家康公式サイト

大河ドラマも今回を含めてラスト5話

家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開く
征夷大将軍とはその名のとおり
征夷(=蝦夷を征討する)役割の大将軍」を指します

飛鳥時代や奈良時代にはおもに東北地方の
蝦夷の征討を行うための臨時の官職として
鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使など
その時の応じて様々な役があったとされています

初めて「征夷大将軍」という言葉が使われたのは
奈良時代の末期であったとされていて
大伴弟麻呂がその任に当たりその次の
坂上田村麻呂はとくに勇名を馳せたましたが
その後は征夷大将軍への補任は途絶え
平安中期になって藤原忠文が征東大将軍に
任ぜられたがこれはその名のとおり
平将門討伐のための任官であったようです

その後平家を破り奥州藤原氏を滅ぼして
初の幕府を作り武家政権を創始した源頼朝
遭えて「大将軍」の称号を望んだことから
過去の例から「征夷大将軍」の称号を与え
ここから「征夷大将軍」が武家の棟梁
地位を意味するものとして使われますが

鎌倉幕府の源氏直系が3代で途絶えると将軍職は
皇族が摂家将軍宮将軍としその地位につき
実権を握る執権北条氏の下で形骸化します

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は当初
公家を中心とした政治を目指してその時期に
征夷大将軍には護良親王・成良親王が任じられ
鎌倉時代後期からの皇族による将軍で続くも

後醍醐天皇を中心とする建武政権
恩賞の配分等で武家との対立が勃発し
足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し尊氏は
後醍醐帝に反して新たな朝廷(北朝)を奉じ
自ら征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開きます

室町幕府では足利氏が将軍として政権を担うも
15代将軍足利義昭は信長によって京都を追放され
実質的に権力の座から追われることとなりますが
この頃の征夷大将軍は足利家の家職化していて
その後のいわゆる信長秀吉の政権(織豊政権)

征夷大将軍による幕府体制とは違う政権樹立
義昭は豊臣政権の初めに辞官するまで将軍職にあるも
権力の実態は全くないものとなります

その後関ケ原の戦いに勝利したことにより
豊臣政権内での対抗勢力を一掃した徳川家康は
豊臣家の中には位置しない独自の立場を確立の
1603年に征夷大将軍に就任し江戸幕府を開き
権力の基盤を固めその2年後に秀忠に将軍職を譲り
将軍職を家職として徳川家が代々武家の棟梁として
その権力の中心であ続けることを示しました

徳川政権においては幕末の大政奉還に至るまで
鎌倉幕府や室町幕府のように征夷大将軍の地位が
形骸化するような事態は無かったのが特徴的

将軍という名称が官職として使われたのは
709年に鎮東将軍に任ぜられた巨勢麻呂が最初
歴史的に一番最後に官職としての将軍は
文字通り最後の将軍である徳川慶喜

結局征夷大将軍だから権力があったのではなく
権力を得たものがその正当性のために
征夷大将軍を利用し続けたという感じ

結局肩書は実態が伴って意味がある
ということかなあというのがここでも分かります

次回は秀頼と秀忠の立ち位置が描かれるのか
第45回「二人のプリンス」

という訳で
今日も一日頑張って行きましょう!

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