【考察】大河ドラマ「光る君へ」第28回!

おはようございます
週のはじまりの月曜日の朝です

昨日は一日中事務所で作業
資料整理と申請書作成
午後に来客2件あり対応

で、月曜日ということで
大河ドラマ「光る君へ」第28回

道長との子を出産したまひろに対し
宣孝は約束通り自らの子として育て
名を賢子と名付ける
道長は入内させた娘の彰子を中宮とし
定子と共に二人の后とする「一帝二后」を
国家安寧のためにもくろんでいた

ドラマのあらすじに関してはこちらへ
光る君へ公式サイト

道長と道隆のそれぞれの権力掌握のために
翻弄された人生であったともいえる二人の中宮

その一人定子は3人の子を儲けましたが
その子らもまた権力に翻弄された生涯で
あったと言える人生でした

最初の子「脩子内親王」が誕生したのは
997年12月16日で、一条天皇脩子内親王
かわいがり相応の処遇をしますが
1000年になり定子が亡くなり、また後に
一条天皇も没するとその後は天皇と
なることもなく1024年脩子内親王は出家

生涯を未婚で通すことになり歴史の表舞台には
表れることのない生涯となりますが
能書家で琴や琵琶の演奏に優れていた
という人生であったと言われています

二人目の敦康親王が誕生したのは999年11月7日
翌年には親王宣下を受けたもののその年に
定子が亡くなりのちに一条天皇の中宮彰子
養育されることになります

しかし1008年に一条天皇彰子の間に
敦成親王が誕生するとこちらが皇太子となり
敦康親王は皇位継承の道は断たれることとなり
無念の人生を送ったとされています

三人目となる媄子内親王が誕生したのは
1000年12月15日でその翌日に
母の定子が亡くなりました
その後1008年4月に媄子内親王は
病気に罹りその翌月に亡くなりました
一条天皇の悲しみは深くその様子は
歴史物語の『栄花物語』に記されているそうです

以上が歴史の流れと言われていますが
ドラマではどのような描かれ方をするのでしょうか

次回、まひろの子賢子は数えの三歳に
第29回「母として」

という訳で
今日も一日頑張って行きましょう!

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