おはようございます
1週間の始まりの月曜日の朝です
2月も残すところ10日を切りました
北京オリンピックも最終日となり
大河ドラマの後では閉会式が放送されました
さて大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第7回目
後白河法皇は平清盛から挙兵した源頼朝が
石橋山で大敗したと知らされ悔しさを滲ませるが
清盛は頼朝が生きていること聞かされると
一刻も早く打ち取ることを命じる
頼朝一行は再起を図るべく東国の有力豪族である
千葉常胤と上総広常に味方につけるよう働きかける
八重は千鶴丸の処置について父伊東祐親を問い詰める
ドラマのあらすじに関してはこちらへ→鎌倉殿の13人公式サイト
源頼朝は1147年に義朝の三男として誕生しました
頼朝の父源義朝は1159年12月に藤原信頼らと結託
平清盛ら平家を打倒しようと戦を仕掛けますが
これが世にいう「平治の乱」と言われる戦い
平治の乱で敗北した義朝は子らを連れ東国に逃れるも
途中、尾張国で味方から騙し討ちされ浴場で討死
その首は六波羅の平清盛の元に差し出されました
父と逃亡していた頼朝でしたが逃亡中に父とはぐれ
迷っているところを平頼盛の家人平宗清に捕縛される
因みに頼朝の長兄義平は捉えられて処刑され
次兄朝長は逃走中に死亡したとされています
ここで疑問に感じるのは何故頼朝は処刑されずに
生き延びることが出来たのかということです
その後の歴史を見れば頼朝を生かしてしまったことが
平家としては最大の失策であったと思われます
実際のところ頼朝も長兄と同じように処刑が決定し
1160年2月9日に処刑が決まっていたそうですが
しかしその処刑に対して清盛の継母である池禅尼が
頼朝の助命嘆願を行ったことが処刑から流罪へと
減刑がなされたその理由と言われています
池禅尼が助命嘆願した理由は頼朝に早逝した子家盛の
面影を見たからであったと言われているようです
ただしこの話にも他説があり、頼朝の縁戚にあたる
熱田大宮司家などの助命嘆願があったから
などいくつかの説があるようですが、もしかすると
当時の清盛の政治的な配慮があったのかもしれません
頼朝は男子9人の兄弟でしたが
長兄と次兄については前述のとおりですが
4男義門は早世、5男希義は流罪先で死去
6男範頼は鎌倉幕府で頼朝に仕えます
7男阿野全成、8男義円は僧侶になり
そして9男が源義経となり物語に絡んでいきます
で、ドラマ終盤ではいよいよ源義経が登場しました
頼朝と義経の因縁がどう描かれていくのでしょうか
という訳で
今日も一日頑張っていきましょう!
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「【考察】大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第7回」へのコメント
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