本能寺の変は誰が黒幕であったのか?⑤

おはようございます
3月最後の土曜日の朝
来週はもう4月、新年度にはいります
今日明日は東京方面への移動には
慎重な対応をするようにとの要請

まぁ元々人混みは嫌いでなるべく
避けて行動する習慣になってるので
人が集まりそうなところには
行かないように行動します

昨日は午前中は事務所内で諸々作業
午後からはクライアント2件と官庁1件訪問
今日は一日引きこもりで作業かな

ということで本能寺の変の黒幕は誰か?
という話題の続きについて
ここで本能寺の変の前後の動きを
確認してみたいと思います

1582年3月の長篠の戦いにより
織田徳川連合は甲斐の武田氏を壊滅
各地の諸将は次々と織田家に従属し
未だ戦闘中なのは北陸の上杉景勝
紀伊の高野山金剛峰寺が細々と抗戦中など
中国の毛利輝元は高松城で抗戦中も和睦を模索
四国の長宗我部元親は恭順を申し入れ交戦回避
あとは各地の小さなイザコザのみ
という状況で既に織田信長の天下統一は
ほぼ達成し抵抗勢力はごくわずかで
この状況を考慮した朝廷では織田信長に対し
関白・征夷大将軍・太政大臣の三職を提示
いわゆる三職推任問題というものですが
しかし信長はこの提示に使者を追い返したとされ
これが朝廷黒幕説が言われる所以になってます

この時点での主な武将の動きは
北陸方面が柴田勝家、前田利家、佐々成政
関東方面に滝川一益、中国方面が羽柴秀吉等
徳川家康はこの時に長篠の戦いの後に旧今川氏の
所領駿河一国を与えられた御礼言上で安土城訪問
信長の歓待を受けた後にわずかな家臣を引き連れ
堺見物をしていましたがこの時の接待役が光秀

しかし光秀は信長から途中で解任をされ
色々と理不尽と思われる条件をつけられて
秀吉援軍のために備中出陣を命ぜらました

この後丹波亀山の居城に戻った光秀は
信長が僅かな人数で本能寺に宿泊という情報を得て
あの「敵は本能寺にあり!」と繋がっていきます

この時に家康は本能寺の変を知り
約3日後伊賀越えを経て三河へ帰国
急ぎ弔い合戦のために出陣したところ
秀吉が光秀を討ち果たしたとの連絡が来た
というのが多くの定説とされています

ポイントは本能寺の変の直前まで光秀は
接待役として家康と時間を共にしていたこと
また本能寺の変の後の家康の動き

山崎の合戦の後光秀は敗走中に山中で
農民の竹槍により命を落としたとされていますが
その遺体は誰か判別がつかない状態であったと
言われていますが弔い合戦勝利の
功績を示したい秀吉により光秀討ち死にという
既成事実を示されたという見方もあり
実は本当に光秀はここで討ち死にしたのか?
という疑問にも繋がっていく訳なんですが

ここから次に繋がっていくんですが
続きは次回に触れていきますね

さあ、あなたはこの土日どんな自粛ライフを過ごしますか?