【考察】大河ドラマ「豊臣兄弟!」第31回!

 

おはようございます
お盆休み明けの月曜日の朝です

昨日は一日中事務所で作業
珍しく来客も電話連絡もなく
ひたすら申請書類の作成
オンライン申請で1件申請

で月曜日ということで
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第31回

清須会議後の秀吉の行動が織田家中に
波紋を広げる中にあってお市は
秀吉に対抗するため柴田勝家に嫁いだ
さらに信孝は幼い織田家当主三法師を
岐阜へ連れ去ったことから織田家中の
水面下の主導権争いが激化して行く
そこで秀吉と小一郎は「信長の葬儀を行う」
という名目で関係者を集め話し合いを
しようとするが…。

今回のストーリーはこちら
大河ドラマ「豊臣兄弟」公式サイト

織田信長の子供たちは
本能寺の変以降どうなったのか?

「天下統一まであと一歩」と
思われていた織田信長でしたが
劇中で描かれていた通り1582年6月2日の
本能寺の変によってその人生は突然終わります

では、信長が残した子供たちは
その後どうなったのでしょうか?

実は信長には記録上少なくとも11人の息子と
多くの娘達がいたとされます
そして本能寺の変を境にその運命は
大きく分かれていきました

ま最も重要なのが嫡男織田信忠
信忠については以前に一度触れましたが

信忠は信長の後継者として期待されていたものの
本能寺の変が起きた際京都の二条新御所にいて
明智光秀の軍勢に包囲され
父信長の後を追うように自害します

信長と信忠が同時に亡くなったことで
織田家は一気に後継者問題へと突入しました

そこで登場するのが
次男の織田信雄と三男の織田信孝です

清洲会議では信長の嫡孫である
三法師(のちの織田秀信)が後継者として
擁立され信雄と信孝はその後見役となります

ところがこの二人の運命は大きく分かれます
一部ネタバレも含みます

信孝は柴田勝家と結んで豊臣秀吉と対立
しかし賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると
信孝も追い詰められ1583年に自害

一方の信雄は秀吉と対立した時期もありましたが
最終的には秀吉のもとに入り
その後は徳川家にも仕えました

江戸時代には信雄の子孫から
天童藩や柏原藩などの大名家が生まれ
織田家の血筋を後世へとつないでいきます

信雄自身も茶の湯など趣味人として
江戸時代まで悠々自適の生涯を送ったようです

そして忘れてはいけないのが
三法師こと織田秀信です
こちらも以前触れたことがありますが

信忠の嫡男だった秀信は
本能寺の変の時にはまだ幼児でした

清洲会議で織田家の後継者として擁立され
のちに岐阜城主となります
しかし関ヶ原の戦いでは西軍につき
敗戦後に改易して出家して暮らし
1605年に若くして亡くなりました

そのほかの息子たちも秀吉に仕えたり
関ヶ原の戦いで西軍についたりするなど
それぞれ異なる道を歩みました

中には江戸時代に高家旗本となり
明治維新まで家名を残した家系もあります

つまり、本能寺の変によって
完全に「織田家が滅亡した」という
わけではなかったようです

信長本人と嫡男信忠は本能寺の変で
命を落としましたが信雄をはじめとする
子供たちの系統によって織田家の血筋は
その後も続いていきました

考えてみれば信長が築いた天下は
わずか一代で崩れました

しかしその「家」は子供たちによって残りました
天下を取ることと家を残すこと
同じ「成功」でも、その意味はまったく違う――

織田信長の子供たちのその後をたどると
戦国時代の「家」と「血筋」の重みが
にも色々と違った意欲があるようです

次回は秀吉は柴田勝家と直接対決
第32回「賤ヶ岳の決闘」

という訳で
今日も一日頑張って行きましょう!

 

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