忠臣蔵、四十七士討ち入り

おはようございます
週の後半戦の木曜日の朝です

昨日は午前中事務所にで申請書類作成など
続いて水戸へ向かい市役所にて証明書類の取得
入管で在留カード受領と他官公庁2件
ひと通りの作業の後に県南地域の某市にて
市役所で証明書類の取得とクライアント先にて打合せ
夜になって事務所に戻り資料整理など

さて今から321年前の1702年12月14日は
赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし
主君の仇討ちを成し遂げたと言われる日

いわゆる忠臣蔵の日です

ここ最近はあまり放送されなくなりましたが
以前は年末といえば色々な役者による
色々な角度から忠臣蔵が放送されていました

ときは1701(元禄14)年3月に
江戸城松之廊下で播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩
幕府の礼式を司る高家筆頭の吉良上野介義央
小刀で切りかかるという事件が起こりました

浅野内匠頭吉良上野介の度重なる嫌がらせに
とうとう堪忍袋の尾が切れての行動

しかし江戸城内での刃傷沙汰に対して
幕府の取った措置は浅野には即日切腹領地没収
という厳しい処置がとられたが吉良には
一切のお咎めがないというもので
これがのちのちの事件の発端となる

家臣たちは主君の仇を討つ為に綿密に計画を練り
翌年12月14日寅の上刻に大石内蔵助の率いる47人が
本所の堀部安兵衛宅に集まり吉良邸へ討ち入り
2時間の戦いの末、浪士側は一人の死者を出さずに
吉良の首を取ることができたというもの

世論は武士の本懐を遂げた赤穂浪士たちに味方したが
幕府は翌年2月4日一同切腹という処置をとった

この事件を題材として歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等
100種にも登る作品が作られ今でも様々な形で
語り継がれています

忠臣蔵には討ち入りに至るまでにも

① 脇坂安照が吉良上野介に一矢報いる
② 村上喜剣
③ 大野や奥村は第二陣であった
④ 大高忠雄の詫び証文の逸話
⑤ 岡野包秀とお艶の逸話
⑥ 大高忠雄と宝井其角
⑦ 赤埴重賢、徳利の別れ
⑧ 俵星玄蕃
⑨ 上杉家の忠臣
⑩ 南部坂雪の別れ

といった語り継がれている逸話があります

あら楽し 思いははるる 身は捨つる 
浮世の月に かかる雲なし

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 
阿弥陀をそへて 四十八人

こちらは大石内蔵助のことば

年末年始にはどっかのサブスクで
忠臣蔵探してみてみようかなぁ、、

という訳で
今日も一日頑張っていきましょう!

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